第26話 強引にエンディング
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さて、今度は武田家との激突である。
6月18日、武田家・穴山信君軍団との野戦。
8月3日、こっそり那古野城に潜入。ダメもとで武田勝頼に寝返りを打診。
自分で仕掛けたことながら信じられん。羽柴秀吉の転向にも驚いたが、それよりあんた、武田家のお世継ぎでしょうが。それが自分の立場と責任を完全に放擲して、他家の旗のもとに走るとは…。なるほど、武田家が滅亡するわけだ。
その後も地道に東進。
さすが信長、やるときゃやる。
年の瀬も押し迫った12月30日には、北条氏従属に成功。
凋落著しい武田家に対し、翌1578年5月、本拠地・躑躅ヶ崎館を急襲。
落城を目前にして、武田信玄と面会。当家への従属を勧告したところ…
ただ、感情はかなり悪いまま。
ところで、毛利陣営への盃外交ならぬ茶会外交のおかげで、60ヶ月続くとされていた攻込名分の残りが38ヶ月にまで減っている。喜ばしい。このままいくと、輝元との和解も可能か?
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天下をうかがう大名にふさわしい居城を…ということで、広島城をハイペースで増築。最初はこういう佇まいだった城(というより砦)が…
2月6日には…
3月10日には…
そして4月11日、巨大城郭に様変わり。墨俣一夜城顔負けの超突貫工事である。
そんなことをしている間に、世間では織田と武田の抗争が激化の一途、さらに三好と長宗我部のドンパチも激しくなってきた。
7月8日、鳥取城にて。
三好vs長宗我部だが、一方的に長宗我部が押しまくり、ついに三好は四国から撤退を余儀なくされた。
8月26日時点の外交関係はこんな具合。
外交的危機は完全に脱したとみていいだろう。
ありがとうございます。官職に就いたからといって特に手枷足枷がはめられるわけじゃなく、献金程度で支配の正統性が認められるのだから、利用しない手はない。
9月12日、河野氏に臣従を要求。
肥前の松浦氏も…
支配力では織田に次ぐ第4位に成長した。
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岩屋城攻略で、和平申入れに訪れた毛利方武将はなんと前田玄以。
さらに、旧尼子家残党の尼子勝久や山中鹿介も城に籠っていたようで、全員まとめて配下に糾合。文字どおり寄せ集め軍団である。
9月27日、久留米城を攻略。これで九州の毛利領をすべて併呑。ここより南は島津領である。
幸いなことに、天城と島津はお互いが敵(毛利)の敵ということで、そこそこ良好な関係のようだ。天城家としては、ギリギリまで毛利を追い詰めておきたいので、島津とは事を構えることなく兵を東に返すことにする。
11月6日から石見攻略、さらに10日遅れで安芸攻略を開始。益田城、桜尾城、佐東銀山城を瞬く間に攻略。
明けて1573年1月2日。肥前平戸の松浦家と同盟締結。
明けて1573年1月5日。
武田信玄の軍が、ついに織田の本拠地・安土城を攻め落とした模様。こりゃあ、ウチ(天城家)よりも先に、織田は武田に食われるぞ。
3月3日から、吉川元春の山吹城攻めを開始。珍しく難儀しながらも、本丸を残すのみとなった段階で、降伏勧告を行うも…
さすがは元春殿。では、やむを得まい。20日の総攻撃で城を落とす。城から逃げ遅れた吉川元春の次男・繁沢元氏を捕らえ、登用。
3月27日、安土で大谷吉継を勧誘。
人物情報【大谷吉継 1559~1600】
豊臣家臣。越前敦賀城主。通称・刑部。秀吉に小姓として仕えて信任を得てのち、賤ヶ岳合戦で功をあげて出世する。秀吉没後は徳川家康に接近したが、親友の石田三成に請われて関ヶ原合戦では西軍に加担。奮戦したが、東軍に寝返った小早川秀秋隊の攻撃を受けて戦死した。
4月24日、三原城を攻略。
5月2日、岡山城に赴いて宇喜多直家と同盟締結交渉。成功。
7月5日から甲山城攻略を開始。
まあ、そう言うなよ。下克上の世、いろいろあるわな。んで結局、7月11日には攻略成功。さらに8月14日、三刀屋城攻略。
いよいよ、織田はケツに火が点いたものと思われる。
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赤間関の下関屋にて。
親毛利の伊予・河野家と和解。
そのまま京に上り、菊亭晴季邸を訪れて治罰綸旨をお願い。
これで何はばかることなく、対馬攻略が可能になった。いわれなき中傷で朝敵にされた宗家、哀れ。
さっそく、はるばる海路で対馬へ。
はい、どうぞ。
家臣の大石智久は登用に成功した。
人物情報【大石智久 ????~????】
宗家随一の勇将。朝鮮出兵の折に、平壌城で窮地に陥った際に、単身櫓に登って田色を見いだしたという。また、弟とともに虎と格闘して退治したという伝説も残っている。帰国後に勲功を賞され対馬佐護郡代に任じられた。
10月16日、京にて。行き倒れ寸前の旅人に水を恵んでやったところ…
このクソジジイ、まだ生きておったか。いい加減、往生しやがれ。
11月23日、且山城に訪問者が…
いきなりやって来て「家老にしろ」とは、随分あつかましい話だが、あまり深く考えずにOKしてやった。しかし後になってみると、やはりこの男、たいして役に立たんかった。
人物情報【那須資晴 1557~1610】
下野の国人。資胤の嫡子。下野鳥山城主。那珂川の戦いで佐竹義重を撃破、薄葉ヶ原合戦では宇都宮軍に大勝し、近隣に武名を轟かせた。豊臣秀吉の小田原征伐の際に遅参したため、所領を没収された。のち陳謝し、五千石を回復する。
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さて、代が替って主家の方針に変化はあるのか。念のため、輝元(もはや呼び捨て)に確認すると…
はん。やっぱりダメだな、三代目の我が儘ぼっちゃんは。能力値を見ても、野心だけは一人前だが、それにともなう覇気も実力もない。「小心」とか「軽率」とか、マジ勘弁してほしい。
こんなボンボンに“おまえ”呼ばわりされるのも、もうウンザリだ。では、腹を決めて○反の準備を始めますかな。
6月28日。
はい、どうも。でも…もう引き返しません。
そして運命の7月11日。
来るなら来い。返り討ちにしてくれるわ。
独立直後の天城家と他大名家との関係。
当然ながら、毛利家と親密な勢力とは一転して関係が悪化している。次に勢力図。
周囲は敵方ばかり。
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さて、島津攻めを継続するにあたり、ちょっと禁じ手を使ってみた。
県城攻撃の直前に内城下に出向き、島津義久・義弘兄弟を且山城のわが茶室にお誘い。招待を受けた二人は、主・天城大鷹より一足先に且山城に赴き、勝手に茶室に入る。
本来ならば、主も遅滞なく帰参して茶会を催し、お客をもてなすのがスジだが、ここはスジも何もさておき、客二人を放置したまま県城に向けて出撃。その間、客はひたすら主の帰りを待ち続けることになる。
9月19日、島津兄弟が不在のまま、いとも簡単に県城(宮崎県延岡市)攻略。
おそらく島津側では二人の不在について、物議が巻き起こっていただろうと思う。
で、且山城に帰還して茶室に行くと…
いやぁ、お待たせお待たせ。待ちぼうけを食わせたこともさることながら、二人を茶室に放置(監禁)した上で、盗人のように県城を奪ったことが誠に申し訳ないのだが、それは言うまい。
恐るべし「天城牢」
でも、これってやっぱりチートですよねぇ。
日付不明だが…
人物情報【蠣崎慶広 1549~1616】
蠣崎家五代当主。季広の三男。幼名は天才丸。姉妹を津軽・秋田の有力豪族に嫁がせて勢力基盤を固めるとともに、豊臣秀吉に謁して蝦夷地における交易権を獲得、安東家からの独立を果たす。のち徳川家康に家系図を献上し、松平と前田から一字ずつもらい、姓を「松前」と改めた。
ここしばらく、勲功稼ぎのために島津との小競り合いを続けているわけだが、どういうわけか大殿・元就は積極的攻勢に出ようとしない。主家の方針が島津攻略と明確になれば、こちらの動きも違ってくるのだが、大殿を問い質しても…
「このまま延々と守勢を継続していくおつもりですか?」
「…」
ってな具合で、まったく張り合いのないことおびただしい。史実における晩年の元就公の心情を忠実に再現しているのかもしれないけど。
さらに、後継者と目されているこの人を訪ねても…
のん気なものだ。このままじゃ、毛利家は凋落の一途である。
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5月13日。
5月27日。
6月6日。
やっぱり、大友からの寝返りコンビは詰めが甘いようだ。それじゃ、真打ち登場といきますかな。
11月11日から府内城攻略戦を開始。
忍術の技能が高い武将に「破壊」を命じて、防御度を下げておいたおかげで、わずか10日あまりで…
いよいよ、大友攻めも大詰めである。府内城に続いて、11月28日から岡城(大分県竹田市)攻め。
特技・連携で敵を粉砕。
で、12月6日。
敗軍の武将の処遇。
この方は、やはり生かしておくわけにはまいりますまい。どうぞ自決を。
ということで、大友家は滅亡。その他、この人や…
この人など、有能な人材は積極的に登用を試みて、陣容を強化する。登用し過ぎという話もあるが…。
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