第18話 伊達家滅亡
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人物情報【直江 兼続 1560~1619】
上杉家臣。樋口兼豊の嫡子。のち直江家を継ぐ。知勇兼備の名将。景勝に重く用いられ、上杉家の執政官として活躍した。豊臣秀吉からも格別の信頼を得て、陪臣ながら厚遇された。秀吉が没すると、一時徳川家康に反抗するが、関ヶ原敗戦後は家康に詫びて主家の存続に尽くした。
前回のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公に知られているとは光栄ですな。
人物情報【上杉景勝 1555~1623】
出羽米沢藩主。長尾政景の次男。母は謙信の姉。謙信没後、お家騒動を制して上杉家当主となる。豊臣政権下では五大老の一人。秀吉没後、徳川家康の台頭を嫌って会津若松で兵を挙げると、これに呼応して石田三成も挙兵。関ヶ原合戦の引き金を作った。戦後は徳川家に降伏。
8月19日。
大鷹「この外道! 人の情けにつけ込みやがって、許さん」
おととい来やがれ。
8月20日。
天城大鷹
「正直なところ、どうでもよい。どうせ、三代目のボンボンだし。後見役の叔父二人がいなくなれば、どうにでも料理できよう」
8月29日、輪島にて。
この男は要警戒。
人物情報【蒲生氏郷 1556~1595】
織田家臣。賢秀の子。初名は賦秀、のち氏郷。信長にその才能を認められ、信長の娘を娶るなど信任を得た。本能寺の変後は秀吉の配下となり、陸奥会津を領して伊達家の監視役となった。知勇兼備の将で、その器量を秀吉に警戒されたとも言われる。茶人としても知られ、利休七哲の一人。
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5月24日。
人物情報【最上義守 1521~1590】
最上家十代当主。中野義清の次男。二歳のとき、伊達家に介入されつつも家督を相続した。のち伊達家の内紛に乗じて勢力を拡げ、最上家を立て直した。その後、次男・義時に家督を譲ろうとしたために長男・義光と対立。義光により、強引に隠居させられた。
1586(天正14)年6月5日。米沢城を訪れ、伊達政宗に喧嘩を売る。
ま、予想どおりと言うか、当然だな。
天城大鷹
「これで、伊達氏の天城家に対する感情は、上杉氏に次いでワースト2になったうえ、今後半年間は当家を攻撃する大義名分ができたな」
羽鳥能高
「攻めてこられるのは一向にかまいませぬが、外交で圧力をかけるのも一興かと」
天城大鷹
「しからば、上杉あたりと誼を通じておくか」
10日経っても伊達が攻め込んでくる気配がない。それではこっちからいくぞ。
6月17日。
「政宗」に喧嘩を売ったあと「正宗」を買った。
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年が改まって1586年(天正14)年。南部家を傘下に吸収した後は、しばらく平和攻勢で。
1月1日、堺付近にて。
伊達家の仕業だろうね。
1月7日、黒川城にて蘆名家当主・蘆名盛隆と面会。
2月10日、米沢城にて、有名な支倉常長と面会。
人物情報【支倉常長 1571~1622】
伊達家臣。慶長遣欧使節団の一員としてスペインを訪問し、そこで洗礼を受ける。さらにローマで教皇パウロ五世に謁見するが、さしたる成果を得られぬまま帰国し、失意の内にこの世を去った。
目的はスペインとの交易だったらしい。
2月30日(?)、佐竹氏と同盟。
人物情報【佐竹義重 1547~1612】
佐竹家十八代当主。義昭の嫡子。
常陸統一を果たしたのち、西は宇都宮家と結んで北条家の進出を阻み、北は蘆名家などと結んで伊達家の南下を制した。合戦に臨んでは「鬼義重」と恐れられるほどの猛将ぶりを発揮し、徐々に下野・陸奥に版図を拡大。佐竹家の全盛期を築く。
翌日には蘆名氏とも同盟。
南進に備えて、居城を湊城から尾浦城に戻すことにした。
3月27日、石山にて。
人物情報【下間頼廉(しもつまらいれん) 1537~1626】
本願寺の坊官。石山合戦では十一世法主・顕如に代わって全軍を指揮し、鈴木重秀とともに「大坂之左右之大将」と呼ばれる。七年に及ぶ防戦に耐えたのち、顕如に従って石山を離れた。信長の死後は京都に戻り、豊臣秀吉に本願寺町奉行を任されている。
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1585年(天正13)11月7日。小諸にて羽柴秀吉に滅ぼされた真田家の残党を勧誘。
人物情報【真田信幸 1566~1658】
昌幸の長男。幸村の兄。上野沼田城主。徳川家に出仕に、徳川家の重臣・本多忠勝の娘を娶る。この縁で、関ヶ原合戦では昌幸・幸村と袂を分かち、東軍に属して勝利。戦後、昌幸・幸村の助命に奔走した。のち、信濃松代の初代藩主となり、真田家の家名を後世に存続させた。
人物情報【真田信繁 1567~1615】
昌幸の次男。信幸の弟。幸村の名で知られる。関ヶ原合戦後、九度山に蟄居していたが、豊臣家の招きで大坂入城。冬の陣では大坂城の弱点とされた三の丸南側に出城を築いて徳川軍を散々に打ち負かした。夏の陣でも徳川本陣に迫る奮戦を見せ、「真田日本一の兵」と称された。
人物情報【三好政康 1528~1615】
三好家一門。青海・清海などと号す。三好三人衆の一人。松永久秀らと謀り、将軍・足利義輝を殺害する。その後、久秀と対立し、久秀と結んだ三好義継とも戦う。織田信長が上洛すると抵抗したが、敗れて逃亡。のち豊臣秀頼に仕え、老齢ながら大坂の陣に参戦し、討死した。
人物情報【矢沢頼綱 1518~1597】
真田家一門。真田幸隆の弟。
兄・幸隆とともに武田家傘下の信州先方衆の一人として歴戦する。兄の没後は、甥の真田昌幸を補佐して真田家の勢力拡大に大きく貢献。沼田城を巡る北条家との攻防戦では、沼田城代を任されて北条家の大軍を見事に撃退した。
天城大鷹
「それにしても、なんで三好政康殿がこんなところにいるのだ?」
椿桜花
「さあ」
11月12日、京都にて。
11月19日、湊城にて。
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7月17日、雑賀にて。
人物情報【岡 吉正 1546?~1585?】
紀伊の豪族。雑賀党の一員。石山本願寺に籠城し活躍した。射撃の腕に優れ、本願寺攻めの陣頭に立った織田信長を狙撃して、大腿部に重傷を負わせたという。のち信長に降り、信長没後は豊臣秀吉の配下となった。
今度は八戸城に潜入。
天城大鷹
「わかった。一揆など起こされると、後が面倒だからな」
1585(天正13)年8月14日、堺にて。
天城大鷹
「お姉さん、かたじけない」
この男、めちゃくちゃくどいからな。
8月26日、不来方城に向けて出陣。
小野寺義道、またしても出陣拒否。いつか血祭りにあげてやる。
8月28日、布陣完了。
で、1週間後の9月4日には…
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★1584(天正12)年12月28日
年の瀬も迫ったこの時期に驚愕の知らせが…
なんと、羽柴秀吉との争いに敗れたらしい。史実では、真田氏は織田-豊臣に臣従して豊臣家延命に少なからず功があったのだが、この世界ではだいぶ事情が異なるようだ。
ま、いずれにしてもこれは好都合。いずれ当家も羽柴と激突する予定なので、この際、真田を傘下に加え、事ある時には羽柴に意趣返しをしてもらうことにしよう。
年が明けて、1585(天正13)年。
他勢力との関係はこんな具合。
現在の天城家の本拠・湊城がある土崎湊について。
土崎は古くから天然の良港として知られ、鎌倉時代以来、豪族・安東氏の拠点として北日本海交通の要所であった。関ヶ原の戦いの後、国替えで佐竹氏が入部した後も久保田城の外港として栄え、北国七湊の一つとして称えられた。
1月3日、名生城に大崎義隆を訪問。
手合わせの結果…
1月18日。
人物情報【池田惣左衛門 ????~????】
酒田の商人。屋号は「鐙屋」。
廻船問屋。三十六人衆と呼ばれる有力商人の筆頭格で、奥州藤原氏の滅亡時に酒田に落ちた遺臣の末裔という。酒田の発展に努め、子孫は井原西鶴「日本永代蔵」に「北の国一番の米の買入、惣左衛門の名を知らざるはなし」と紹介されている。
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