9月1日の評定。相変わらずとんちんかんな方針を打ち出す元就公に楯突きまくり、またもや強引に方針を変更させる(「内政」→「軍備」)。
で、主命は「徴兵」。吉田郡山城下で宣伝活動を行って…
当時の吉田の人口は不明だが、どう見ても田舎ですからねぇ、2084人も集めるのは至難の技だったはず。
9月21日、忍びの報告。「足利義昭は朝倉を見限って織田に接近」とのこと。
史実では、足利義昭の朝倉家滞在は2年に及んだという。朝倉家では、すでに足利義満の次男・義嗣の子孫である足利嗣知もかかえているため、朝倉家当主・義景は、足利義昭を奉じて積極的に上洛する意思を示さなかった。
10月17日、三島の砦で初めて村上武吉に面会。
人物情報【村上武吉 1533~1604】
能島村上水軍の頭領。義忠の子。瀬戸内海に独立勢力として威を誇る。厳島の合戦より毛利家の傘下に入ると、小早川隆景に属して毛利水軍の中核をなす。豊臣政権下でも、秀吉の誘いに応じることなく毛利家に尽くした。晩年、その兵法を「村上船戦要法」に書き残している。
11月1日、三星城(みつぼしじょう。岡山県美作市)攻略にGOサイン。
野戦でまた老いぼれと一戦を交える。
うるせー。太郎松か次郎松か知らんが、もはやジジイの出る幕じゃないわ。いい加減、引退しろ。それとも、こっちから引導を渡してやろうか。
で、城のほうは難なく攻略に成功。その結果…
史実(永禄9(1566)年)より、3年も早い展開である。
尼子家当主・義久以下、倫久・秀久の三兄弟は安芸円妙寺(宮島口の近くにある延命寺?)に幽閉され、10数年にも及ぶ厳重な監視下での生活を余儀なくされたわけだが、ここでは尼子義久は行方不明に。山中鹿助を逃亡生活に入った模様。
11月19日、京。南蛮寺で寄付。
12月1日、一乗谷城で朝倉義景に面会。
この城のどこかに将軍・足利義昭が身を寄せているらしい。
12月6日、忍びからの報告によると、龍造寺家の佐嘉城が大友義鎮軍団に攻め落とされたとのこと。
12月11日、小谷城で浅井長政に面会。
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